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現在に至るまでの経緯を書いておきますね

初めまして、佐々木慶です。

私は19卒の既卒生で、現在はプログラミング学習を継続しながらエンジニアとしてのキャリアを切り開くべく奮闘しています。

この記事では、学生時代〜新卒就活というレールから外れ、現在に至るまでの経緯を書いていきます。

私は学生時代より、所属&離脱 - 模索 - 挑戦のプロセスを無意識的に繰り返しています。この記事ではそのプロセスに従って、各プロセスにおける自分の活動内容をできるだけ簡潔にまとめたいと思います。

高校時代編

高校1年生 所属と離脱。

当時私はバスケ部に所属していました。

中学校時代のバスケ部が弱小もいいとこで、「公式試合を勝ち抜けるチームに行ってみたい」と考えていたため、都内ベスト16(?)位の高校に進学。しかし、私は部活を1年足らずで退部します。(理由は長くなるので、ここでは割愛します)

高校2年生 模索。

バスケ部時代に部員以外と交友がなかったために、学校では多くの時間を1人で過ごした覚えがあります。

部員との関係性もあまり良好ではなく、気まずい空気を感じながら日々を過ごしていた覚えがあります。体育が結構盛んな高校だったので、帰宅部に転落した私に向けられる視線は、かなり冷ややかになりました。居心地は悪く、パッとしない学校生活。

しかし、学外では、スケートボードに挑戦してみたり、YouTubeでトーマスハーンズ(アメリカの元ボクサー)の動画に感化されてボクシングジムに通い始めたり、YouTubeでカレッジフットボールの動画に感化されて、自宅から電車で片道2時間の場所にある社会人アメフトチームに単身で乗り込んだりします。

チームスポーツ、個人競技、そして動きの違うスポーツを横断して習得したため、身体能力が爆上がりしました。この辺の時期から、たいていのスポーツはYouTubeで動画を見ればある程度模倣できるようになった覚えがあります。


高校3年生 挑戦。

突然、体育祭の応援団長に立候補し、団長就任挨拶で全校生徒を前に「優勝する団の団長の顔ぐらい覚えて帰ってください。」と言い残してまんまと優勝したり、ベンチプレス100kg達成したり、卒業式の予選会でダンスを披露しようとプランを立て、5人でお金を出し合ってプロのダンサーに2ヶ月みっちり指導してもらい、本番でまんまと黄色い声援まみれになったりします。

高校2年の時点では友人が2人位しかいなかった帰宅部が、その翌年には様々なイベントで目立ちまくり、各部活のキャプテンクラスを集めてジムでコミュニティを作っていました。

友人から「スクールカーストの外側にいる男。」と称されたことがあります。

進路についてですが、「教員になれればいいかな〜。」とざっくりとした将来設計をしていたため、推薦で入れる&教職課程が用意されていた桜美林大学に入学します。

それに、当時の私は「学校の成績は単なる従業員指数だよ、上から言われた事を100%遂行できるか試されてるだけだから。」みたいな生意気な自論を携えていたため、記憶学習をとことん嫌っていました。

過去に戻れるなら、あの頃の自分をぶん殴って、「でも、そのままでいいよ!」と言ってやりたいです。既存の学校教育にはもっと言い形があるはずです。し、君がサボった分は今の自分で取り返すよ。

きっと、高校時代の友人との関係性は、時間ともに消滅していくだろうなぁと思っていたので、受験勉強は捨てて、人生一度の高校3年生を思いっきり謳歌しました。意外と後悔が無いです。

【当時の写真】

(下段・中央)



大学時代編

大学1年生 あんまり覚えていない。

大学にはあまり決まりきった組織形態が存在しなかったので、所属&離脱のプロセスはあまり感じませんでした。強いていうなら1年半付き合った彼女と別れちゃったくらいです。

ダンスサークルの立ち上げに協力したものの、経験者が少なく、運営が破綻したりもしました。(メンバーの内の1人は大学を中退したのですが、後々インターンシップで再開して感動しました。)


大学2年生 模索。

大学2年のある日、教職課程の重要なオリエンテーションがありました。

しかし、当時私が働いていたバイト先が結構黒めで、誤ってシフトを入れてしまっていた私はバイトに向かいます。怒られるのが怖かったからです(客前で怒鳴られる、小突かれる、シカトは日常茶飯事でした)。今まで何も長続きしてこなかった自分は、負い目がありました。だからこそ過酷な環境でも2年ほど耐えたんです。

よく「あの辛い経験があったからこそ、今忍耐することができる」といった旨の話を聞きますが、私はそうは思いません。辛い経験に涙を堪え、痛みを我慢するくらいなら、孤独や社会的な偏見を受けてでも、自分が望む居場所を探すべきです。私は、あのキツい体験を我慢したことを後悔しています。やはり、自分の価値観に従って決断を下す方が清々しいです

この時点で教員免許を取得するためには、留年をしないといけなくなりました。教員になりたいという動機も失っていたため、教職課程を放棄します。

幸運なことに、私の大学はダブルメジャー(異なる学部の授業・コースを利用できる)制度があったため、これを機にあらゆる学問に手を出し始めます。

哲学・経済学・金融・プレゼン演習・体育実習・演劇 などなど...。

ここで私の知的好奇心が産声をあげます。

(あれ...? 学ぶのってめちゃくちゃ楽しくないか...?)

そう思い始めたのはこの時期で、この頃からはじめた本を読む習慣は現在でも継続しています。(最近は学問のすゝめと、論語と日本の教育についての本を読んでいます。)


大学3年生 挑戦。

私は突如、ミスターキャンパスコンテストに出場します(青学のミスが有名なアレです。)

出場を決めるまでは、出場者に対して批判的な姿勢を持っていました。レベルが低いだの、ナルシストだの、なんかいけ好かないだのと、色々な理由でです。しかし、自分に批判する権利があるのか疑問が湧きました。レベルが低いのなら、私は勝てるのか。そう考えてみると、俄然興味が湧きました。

そんなこんなでコンテストに出場し、2ヶ月で10kg痩せたり、イベントに出場したり、毎日SNS投稿したり、キャンパス内で好奇の目線を浴びせられたり、SNSで誹謗中傷を受けたり、ライブ配信頑張ったり、ファッションショーにオファーを頂いたりと、今まで自分が絶対にやってこなかったであろうアクションを、約半年間のうちにたっぷり経験しました

【出場当初の写真】

いいお米くらいふっくらとしています。あと、インナーが透けています。


【コンテスト終了時の写真】

シャープになりました。インナーもタキシードなら透けようがありません、考えましたね。


そんなこんなで、忙しない半年間を過ごしましたが、結局グランプリに手は届きませんでした。(しかし、桜美林大学のグランプリ・準グランプリが、全国大会でもグランプリ準グランプリを獲得してくれたので、実質私は全国で6位くらいかなぁ。というジョークをよく使います。)

その後諦めきれずに、モデル事務所や芸能事務所にアプローチをし続けます。履歴書を30~40通送った覚えがありますが、全て門前払いでした。

今振り返ってみると、大学時代は挑戦をうまくモノにできてなかったんですね〜。


就活戦線1年目 所属と離脱

さて、就活だ、ということで、幕張メッセの例のアレ(就活開幕イベント)に向かいます。

序盤はかなり好調。始まってすぐに、2つの企業の最終面接までたどり着きます。

しかし、漠然と不満を感じていました。

(あれ? 全然自分で決めてない!)

ぼんやりとそう感じた私は、最終面接の最後の逆質問で「何もありません」と言い残し、もう1社の選考を辞退しました。(何もありませんと言った時、人事の方に「本当によろしいですか?」と聞かれたのが印象的です。ゲームデータを消去する際のポップアップを思い出しました。)

その後も、なんとなく就活を進めていました。ほぼ全ての業界を見て、世の中にどんなビジネスモデルがあるのかを知ることができたのは、刺激的で良い経験になったと思います。しかし、一つの業界に多くの時間を投下できないというのは、それだけ面接は不利になるということです。

7月ごろまでで、50社以上(カジュアル面談を含めれば70社ほど)の選考を受けましたが、内定はゼロでした。

この頃から、情緒が不安定になってきます。クラブで夜通し躍り狂うようなスーパエネルギッシュな日々が数ヶ月続くと、次第に活力がなくなり、何も手に付かなくなります。このような起伏を何度も繰り返すので、これはおかしいと思い精神科を伺ったところ「双極性障害(躁鬱)」と診断されました。

簡単に言うと、気分の起伏が激しくなり、制御が難しくなる病気です。

(参考:https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_bipolar.html )

面接に落ちるのももちろん辛かったですが、自分の人生の舵を自分でとることができていない状況が、何よりストレスだったんだと思います。

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精神病をお飾りにするような風潮があまり好きではなかったので、他の人に相談するのも憚られました。薬に頼るとそれなしで立てなくなるのではないかと思い、薬も服用しませんでした。

幸い、健康福祉学群という学群に所属していたため、精神病やマインドケアなどの手法はある程度心得ていたので、それを自らに適用します。

他社との比較を生んでしまうSNSから自分をできるだけ断ち、セロトニン(鬱に効果があるとされる神経伝達物質)の分泌を促すため早起きを習慣化し、運動を継続し、親しい友人とゆっくり時間を過ごす。

これらの処置が功を奏し、比較的早い段階で精神の安定を取り戻せました。

そしてその年の10月ごろ、(新卒就活、やめよ。)と決心します。

もしあの時、就活を我慢して続けてしまっていたら、私は今でも回復できていなかったかもしれません。

【卒業式】


就活戦線2年目 模索 (既卒1年目)

突然ですが、好きな食べ物を思い浮かべて見てください。

ほぼ例外なく、今までに食べたものの中から選ぶはずです。未だかつて食べたことのない食べ物の名前と姿を想像して「あ!これが私にとって一番好きな食べ物です!」て叫び出す奴がいたらドン引きします。見ようによっては天才ですが。

好き・得意な仕事も同様に、体験がなければ評価しようが無いはずです。

外見と面接を通して企業を観察し、入社後にやることは会社に委ねる。自分が何をするかではなく、自分がどこにいるかを選ぶことしかできない。

「どの店に入ってもいいけど、自分が食べるものは店主が決める」

その様な新卒採用のシステムは、少なくとも私には合っていないんだな、と気がつきました。

ですが、元を辿れば、私が職業を選べないのはスキルが無いという致命的な欠陥があるためです。なら、最低限戦える人材にならなければ、と思い、インターンを漁ることにしました。

私がインターンシップを経験したのは3社ですが、経験した職種で言えば6つほど。

営業・SNS運用・ライティング(SEO/クリエイティブ)・ホームステージング・編集・データ分析・(フリーランスモデル/ライター)

直近の1年間は非常に濃かったです。1日はあっという間に過ぎていきましたが、振り返ってみると3年間くらい経っていた様に感じます

また、起業もトライしてみたかったため、リーンキャンバスにアイデアを書いて、何人かVCにアプローチしたこともありました。(惨敗でしたが)

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これらの経験の中で、なぜ私がエンジニアを目指したのかというところなのですが。グリーライフスタイル株式会社で、データ分析のインターンをしていた時の経験がキーになりました。

私のいたチームは、インターン生で構成されていました。

自分と同い年の早稲田生(以降:W君)&東京理科大生(以降:T君)と、1つ年下の上智大生(以降:J君)です。圧倒的な学歴のプレッシャーに、少し萎縮したのを覚えています。この人たちとは能力のレベルが根本的に違う、と。

最初のうちは、スプレッドシートでメディアの記事に関するデータを扱っていました。しかし、どうやらスプレッドシートにはGASと言うスクリプト言語が存在し、それを扱えるのはT君しかいないとのこと。また、T君Pythonを使ってWEB上のデータをスクレイピングしてくる、とのことです。

無知な私は、「謎の蛇使いがこのチームにいる」そう確信しました。

1ヶ月が経った頃、私はスプレッドシートをある程度使いこなせる様になっていました。

そして、GASやPythonに興味が向きます

始業時に1日分のタスクを投げられるのですが、その頃には大体6~7時間程度で業務を終わらせられる様になっていました。そのため業務はさっさと終わらせ、残りの数時間でJavascriptやPythonについて調べたり、どんな挙動をするのか試しに動作させたりと、勝手にいじって面白がっていました

2019年が終わる頃には、GASを扱える様になっていました(Pythonも少し)。

業務でルーティーンワークが投げられた時には、(あぁ、これは自動化したいな!!)という感情が湧き上がってきて、手作業でのコピペなんかは全部スクリプトにお任せしていたので、生産性はかなり上がりました。チームで決まった曜日に行っていた作業も自動化し、組織全体の生産性向上に寄与できたこともあり、SlackBotとAPI連携して、メディアに関するデータを定期送信する。などの(自分等にとって)高度な仕事まで任せていただけるようになり、チーム内での存在感・成長を実感できた時期でした。

この時期には、私はエンジニアとしてキャリアをスタートさせることを決意していました。

なぜなら、【プログラムを書き、課題を解決するという流れに、自然と興味を持ち、自然に学習し、自然と好き/得意だと思えていた】からです。

そして、高学歴の学生達との間に大した能力の違いはなくて、得意なものを見つければ優秀な大学を出た方とも十分同じレベル感で仕事ができるという事実を理解し、私の中に小さな認知革命が起こりました。


就活戦線3年目 挑戦 (既卒2年目)

そして、今年、2020年を迎えました。

チーム内で信頼を築き、ライターチームから直接仕事を頼まれたりと、最終的にはメディア事業部全体から信用してもらえた気がします。(元々はSEOライターとして参加したのですが、性に合わず1週間で異動をお願いしたため、初めのうちは信用が無かったです。柔軟に対応して頂いてありがとうございました。)

また男4人の分析チームは、私が入った当初はお互い態度もよそよそしく、チームとしてまとまりがありませんでした。しかし積極的にコミュニケーションを図ったのが功を奏したのか、3月頃にはチームでランチに行ったり、仕事中にちょっとした雑談をするくらいに、緩やかな繋がりを構築することができました。(もちろん私だけの努力ではありませんが。)

今はデータ分析のインターンを卒業して、グッドルーム株式会社でライターのアルバイトをしながら、プログラミングの学習をしています。

ここ約2ヶ月で、基本的なRuby RoRを学習し、railsを用いたポートフォリオの作成、インフラの構築をしました。

最近はReact/reduxについての知識をインプットしており、ポートフォリオのRailsをAPI化して、バックエンドとフロントエンドを完全に独立させようと企んでいます。

今年はリズム的に、挑戦の年になりますから、頑張ろう。

最後に

私はなにも「特別なきっかけが訪れて、自分にとっての天職が見つかる」ことを期待して、卒業後もウロウロしていたわけではありません。当時の私にあった選択肢をシラミ潰しに検証し、ベストだと思う選択をするために、主体的に行動し、泥臭くもがいてきました

既卒は既卒というだけで、就職が不利になると聞いていましたし、実際不利だと感じています。しかし、キャリアに対して不真面目だからこの様な立場にあるのではなく、むしろ真面目にとことん向き合ったからこそ、普通より多くの時間を要したということを理解していただきたく、記事を書きました


以上です!ここまで読んでくださった方、ありがとうございました