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Wakrak代表インタビュー【前編】 幼少期~高校二年生時にヒッチハイクで日本一周をするまで


初めまして!Wakrak株式会社の採用広報担当の佐藤です!

今回は、弊社の代表取締役 谷口 怜央(タニグチ レオ)にインタビューしました!

谷口さんはこれまでに多数メディアに取り上げられてきましたが、なんと自社インタビューは初めてだそうです!

入社して間もない私が知りたかった、谷口さんの生い立ちから会社への想いまでを根掘り葉掘り聞いてみました。

かなり濃い内容になったため、インタビューを前編、後編の2部に分けてお届けします。

前編では現在20歳の谷口さんの幼少時代から、10代で起業を決意するまでの経験をたっぷり語ってもらいました。ぜひ最後までお付き合いいただけると幸いです。


ー谷口さんはどんな家庭で育ったのですか?

家族構成は、両親と兄と僕の4人家族です。父親は名古屋で建築事務所の経営を、母親は着物の着付け教室の経営をしている家庭で育ちました。

僕は、幼稚園から中2まで野球少年でした。小学生になると、地元のクラブチームに所属し、レギュラーメンバーにも選ばれ、野球に夢中の日々を送っていましたね。

ところが、小学5年生の時中学受験の勉強のために強制的に野球を辞めさせられたのです。4つ上の兄が地元で一番偏差値の高い中学に通っており、僕も当然のように中学受験を強いられました。しかし、僕自身「偏差値の高い学校に行く」ことに全く価値を見出せず、勉強への意欲もありませんでした。当然、兄の通っていた中学の受験には落ちてしまいました。

結局別の私立中学に入学することになるのですが、そこでも野球部に所属し、勉強よりも野球を優先していました。1、2年はレギュラーでバリバリやっていたのですが、ある日下半身不随となってしまう大怪我をしてしまったんです。

もちろん野球は辞めざるを得なくなり、その日から車椅子生活となりました。


ー下半身不随とはかなりの大怪我ですね。。車椅子での生活はどうでしたか?

車椅子生活になってしまい、一人でまったく生活ができず行動範囲も狭まってしまいました。

自ずと友達と連むこともなくなり、「みんな僕から離れていってしまった、、」という気持ちから、だんだんと心を閉ざすようになっていました。

日々孤独を感じ、普通に歩いている人たち全ての人に勝手ながらムカついていました。

毎朝親に無理やり登校させられ、不登校にはならなかったものの、ますます勉強をしなくなり先生にも反抗するようになっていました。家に帰ったらカーテンを閉めて引きこもり、特に何もせず寝て・・・心の面でも不健康な生活を送っていたと思います。

※中学二年生の時の車椅子姿

ゲバラとの運命の出会い

そんな引きこもり生活を1年ほど続けていたのですが、ある日、たまたま父親がチェ・ゲバラのドキュメンタリー番組を見せてくれました。その番組を見た瞬間から僕は釘付けになってしまったのです。その日は家族と出かける予定だったにも関わらず、僕はテレビの前から動けませんでした。

その瞬間に生きる気力が湧いてきたんです。その時の事は今でも鮮明に覚えています。その番組を見てから意識が変わって、リハビリをしたい!歩かなきゃ!と思ったんです。

※チェ・ゲバラ

ーゲバラのドキュメンタリーの、どんな内容に惹かれたんですか?

僕が見たドキュメンタリー番組は、「チェ・ゲバラ ~世界を変えようとした男~/NHK・追跡者 ザ・プロファイラー」というタイトルでした。

ゲバラは「キューバ革命の指導者」や「Tシャツの絵柄」(世界で最も多くTシャツに印刷された顔と言われています)として有名ですが、実はアルゼンチン出身の裕福な家庭で育った医者です。彼は未来が保証された生活に嫌気が立ち、友人と2人で南米大陸縦断の貧乏旅行を始めました。

南米を旅して出会った人の中には、病気で苦しんでいるにも関わらず、貧しさが故に薬も買えない人々が大勢いました。診療をしていく中で、彼はそういった状況がなぜ生まれるか考えるようになっていきました。

そして資本主義国による南米の搾取が行われていることを知り、資本主義国(その時は米国)を敵視するようになっていきます。旅をしている中でフィデル・カストロ(後のキューバ革命のリーダー、キューバ首相)に出会い革命への参加を決めました。

革命では軍医として参加をしましたが、キューバ軍の攻撃で、当初82人いた仲間は数日で12人まで減ってしまったため武器を持って戦うことになります。

ゲバラは戦いの中でも統率力を発揮し、司令官としてカストロに次ぐNo.2となります。彼が今でも多くの人に称えられる理由の一つに、敵でも無駄には殺さずに命を救った、という逸話があります。敵が降伏したら解放し、深手を負っていたら重要な医薬品を使ってでも命を助けたりしていたのです。僕は彼のそういった、敵であっても重要な人間として扱った姿勢にも心を動かされました。

その後、革命が成就すると彼は政治家としても力を発揮していきます。歴史上で見ると革命成功後は、革命軍の重職が富を得ることが多いですが、彼はそれを拒み質素な生活をしていました。彼の言葉にも「私は貧しさに苦しむ人々と運命を共にしたい」というものがあります。

そして更にすごいのが、彼は一国のNo.2としての約束された地位を捨て、世界で苦しむ人々のことを考えアフリカや南米諸国の革命にも参加していきました。しかし、最後には捕まり銃殺されてしまうというエピソードの詰まった39年間の人生でした。

「医者」→「革命家」→「一国のNo2」→「革命家」と常に彼は地位ではなく理想を掲げ苦しむ人々を見て見ぬふりをせずに手を差し伸べ生きていたことを知り、僕は自分に手が差し伸べられているかのように感じました。

今でも毎日1時間の番組を欠かさずに聞いています。6年間毎日聞いているので、累計2,000時間くらいは注ぎ込んでいますが、彼の思いを考えると今でも聞きながら涙が出そうになります。(笑)

※捕まり銃殺される前日のチェ・ゲバラ(銃殺の直前の言葉は「恐れるな、撃て、お前の目の前にいるのはただの男だ」)


ーゲバラとの運命の出会いですね!番組を見てからどういった行動をしたんですか?

僕は、彼が革命の思い半ばで去った”アフリカ”というものに凄く強い思いを持つようになり、「彼の代わりにアフリカで革命を起こすんだ!」という思いに駆られました。

そのために、まずは歩けるようにならないといけなかったので、毎日病院に通いリハビリをしました。


ーリハビリを終えて、すぐにアフリカに行ったのですか?

すぐに行きたかったのですが、アフリカとは言ってもどの国にどうやって行くのかも決まっていなかったので親を説得することができませんでした。しかし、どうしてもアフリカに行きたい気持ちを抑えることができず、どうすれば行けるのかという方法を必死に模索しました。高校1年生(足が完治して歩けるようになった翌年)の時に、ついにセネガルという国に住んでいる日本人の方と繋がることができ、現地のセネガル人の方を紹介してもらいました。そうして高1の夏休みに晴れてセネガルにホームステイが出来ることになりました。

※高校一年生のセネガル滞在時の写真


ーセネガルではどんな1ヵ月を過ごしたのですか?

元々旅行やボランティアをしに行ったわけではないので、現地に滞在して1ヵ月間ただ街で現地の人々と同じような暮らしをしました。

当時、セネガルの周辺国は紛争中の国ばかりで、かなり危険な地域が多かったのですが、セネガルだけは日本と同じくらい治安も良く安全な国でした。ただ、舗装されている道などは少なく、地面は基本的に土で、みんなその辺の道端に座ったりしているんです。治安はいいけど「貧しい」という印象はありましたね。

食事は豆を煮たものやパン、あとは名前は覚えてないですが、見たことのなかった野菜を生で食べることが多かったです。僕はこの生野菜を食べてお腹を壊し、2日くらい寝込んだことがあります。(笑)

※セネガルで出会った子供たち


ーセネガルに行ってから心境の変化はあったりしましたか?

自分の小ささというか、無力さを思い知りました。

僕は今までアフリカ全土が貧困のイメージがあったので、そういった国や人々を救うためにはどうすればいいのかを考えるためにアフリカに渡りました。

しかし、いざ生活をしてみると、セネガルの人達は僕が何かをしなくても今を楽しんで生きているし、貧しくとも幸せそうな印象を受けたんです。助けたいと思うこと自体が「何か違うなぁ」と違和感を覚えるようになりました。

ホームレスの方から起業家まで、様々な人との触れ合いで学んだこと


ーセネガルから帰国後は何をしていたのですか?

セネガルから帰国後も、またすぐにでもアフリカに行きたいと思うようになっていました。親に「高校を辞めてアフリカに行きたいんだ!」と説得してみたものの、案の定猛反対されてしまい、当時16歳の谷口少年には制止を振り切る経済力もなく、仕方なく断念をしました。

その後はアフリカに行けないことへの未練を抱えつつ、これから何をしようか考えながら地元の名古屋の街を歩いていました。そこで地べたに座っているホームレスの方々を見かけたんです。

セネガルでもこういった光景は見かけましたが、セネガルではそういった光景が当たり前のようにあり、ご飯を持ってきてみんなで分け合って食べていたんです。光景は同じでもその周りの人たちの反応が全く違う、そういったものに違和感を感じたんです。

そういった日本の「見て見ぬふりをする」環境を変えなくてはならないと思ったんです。道ゆく誰しもが、困っている人や生活に苦しんでいる人に手を差し伸べることなく、まるで存在していないかのように通り過ぎていくという状況を本気で変えようと決心しました。

それから、学校が終わると毎日ホームレスの人達に話しかけに行く生活が始まります。1年ほどその生活を続けていると、どんどん知り合いが増えていきました。

※普段作業をしているオフィス併設のカフェでの写真


ーホームレスの方々と触れ合った1年間で何か変化はありましたか??

ホームレスの方々の暮らしぶりについては知ることが出来ましたが、自分がやっていた事は、「ただ話しかけに行く」だけでした。物をあげたり、何か支援するという”上から”の立場ではなくあくまでその人、ひとりひとりを認識してコミュニケーションをすることに重きを置いていたんです。16歳の少年が街中でホームレスの方々と話している光景を街行く人は白い目で見ていたと思います。そうした中で僕は物理的な変化よりも精神的な変化がこの実態にはまず必要だと思うようになりました。

毎日話しに行くことで人と話す楽しさを知り、社会復帰をしていったホームレスの方もいました。ホームレス生活をしている大半の方が、他人との関わりの薄さからこういった状況から抜け出せないことを知りました。それと同時に、自分が永遠にこれをやっていても、多くの人が自身が望む生き方ができる世界にはならないなと思いました。

そして、僕が意識しなければいけないのは「貧困を始めとした何かで苦しんでいる人々」ではなく「その状況を見て見ぬふりをしている世界そのもの」だと考えるようになりました。

これが、「起業」を意識し始めるきっかけです。


ーそこで起業に一歩近づくわけですね!次はどんなことをしたんですか?

仕組みを作ろうにも、そもそも当時の僕は世の中の事をほとんど知らない高校生です。まずは、より多くの“大人”の話を聞きたいと思うようになりました。

そこで、高2の夏休みに1ヵ月かけてヒッチハイクで日本一周の旅をしたんです。

車に乗せてくれる人達は、なぜか経営者とか起業をしている方が多く、色々な話を聞く中でITやスタートアップという存在を知りました。

そしてたまたま名古屋でスタートアップイベントが開かれることを知り、日本一周の途中だったのですが(確か高知県にいた気がします(笑))、名古屋までヒッチハイクですぐに戻りイベントに参加をしました。

そうしてヒッチハイクで出会った方と意気投合して一緒に旅をしたり、車に乗せてもらった方と会話をしながら社会について知ったりと、非常に学びあるヒッチハイクの旅でした。


※高校二年生のヒッチハイク時の写真

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!

谷口さんの淡々としたクールな話しぶりとは対照的に内に秘めた熱意(特にチェ・ゲバラに対する想い)が伝わってきました。10代でこれだけの濃い経験をしているなんて本当に刺激的ですね!

前編はここまでのお届けとなります。

次回は日本一周の旅から帰ってきた谷口さんが起業への一歩としてどんな行動をしたのか!?をお届けします!

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