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【CTOインタビュー】CTO佐藤の転機~舞台は飛行機から睡眠へ~

ニューロスペース2人目のメンバーCTO佐藤、元々航空工学専攻していた佐藤がどうして睡眠の研究者となったのか?そして、どうしてアカデミアからビジネスの道へ進んだのか?佐藤の源泉に迫ってみました。

乗るから造るへ

 子どものころから乗り物が好きだったんです。飛行機が好きすぎて「パイロット」になることだけを考えていた中高生時代。しかしながら視力の資格要件を満たすことができなくて……その道は絶たれたんですが、「それだったら造るしかない!」と発想を転換して。
 そこから猛烈に飛行機(旅客機)を造ることについて勉強をし始めたのが高校2年、この後が最初の転機でした。

日本からアメリカへ

 飛行機(旅客機)の製造について勉強を始めたら「日本で旅客機を造ることは非常に難しいことだ」と気づいたんです。国産旅客機と言えば、古くはYS-11、近年三菱重工のMRJがニュースになったけど、私が高校生だった当時は国産旅客機の製造においては世界に比べて遅れを取っていて、日本で航空工学を勉強しても限界があると感じてました。
 そこで「こうなったら本場へ行くしかない!」とアメリカの大学へ行くことを決意したんです。

アメリカの大学へ行こうと思った原体験

 小さいころから乗り物好きだったので、小学6年の時から青春18きっぷを使ってひとりで親戚巡りをする一人旅をしていました。「好きな鉄道にも乗れて親戚からお小遣いももらえるなんてなんて最高なんだ!」と思って毎年時刻表を買って、自分でプランを立てながら旅行をしていました。
 そして高校2年のある日、両親から「ボストンとニューヨークに知り合いがいて、おいでって言ってるから行ってみる?」と言われ、「飛行機に乗れる!」というだけで「行く!」と即答しました。10時間を超えるフライトも興奮しまくって一睡もできなくて、今でも鮮明に覚えている人生初の強烈な時差ボケにも遭遇しました。
 アメリカに到着した当時、実は英語の成績は2とか3を行ったり来たりで。海外に行くからと言って特に準備もせずに来てしまいました。ずっと知り合いがつきっきりでいるわけではなく、実はサマーキャンプに送り込まれたということをアメリカに到着してから知ったんです。最初は日本語を話す人が誰もおらず、向こうが何を言っているかわからないし、こちらの言うこともわかってもらえない状況で。でも「あれっ?」と思い始めたのは1週間後。なんとなくフィーリングで相手の言うことがわかってきて、会話や意思疎通ができて友達もできるようになりました。
 サマーキャンプは無事に乗り越えたんですが、本当の試練は旅の最後、出国のカウンターにありました。入国の時はYESで答えていたら通過できたのですが、実はチェックインの際にされた質問がYESで答えてしまうとアウトな質問で。案の定別室送りとなったんですが、日本の子どもがひとりで意気揚々と「YES!」と答えていたのを疑問に思ったんでしょうね。空港職員が日本語の紙を持ってきて私と指さしで会話して、ようやく誤解も解けて無事日本へ帰国することができました。
 2週間ほどの経験でしたが、無事に日本に帰ってこれたということが自信になって「行けば何とかなる!」精神で前向きにアメリカの大学へ行こう!、と考えることができました。

家族と運、2つのサポート

 「アメリカの大学へ行く」となると家族のサポートは必要で、私の身の回りには海外を飛び回る親戚が多かったこともあって、アメリカの大学へ行きたいと伝えたときも「そう、行ってらっしゃい」という感覚で、自分でやりたいことをやって失敗しても行ってくればいい、という環境でサポートをしてくれました。アメリカの大学へ行けば、飛行機にも乗れるし大学にも行けてめちゃお得!と、英語力はさておき、楽しそうと思って行ったのが大きな転機でした。
 そして、もう一つの運。これは先ほどからお伝えしている英語。実はアメリカの大学へ行くと決めたのに、英語の本を読むより飛行機の本ばかり読んでいたんです。大学へ行くための試験は点数が低いと語学学校からスタート、更に低いと留学のビザも下りない。そんな中受けた試験でミラクルが起きたんです。本当のことを言うと、実際に問題を解けた感触もなくて落胆していたんですが、実は受験者の中で上から2番目の成績となり、行きたい大学を好きに選べるという結果になりました。
 こうして無事アメリカ、テキサスにある大学へ入学しました。しかし、やっぱり入学後にもう一度受けたテストはボロボロで1年間の英語学校への送還となってしまいました。でも、「ここで1年頑張って語学学校を卒業すれば大学で飛行機の勉強できるんだから!」とポジティブに考えて語学学校へ通いました。

日本に帰るしか選択肢がなくなってしまった就職活動

 大学での勉強は、数学が元々苦手だったものの、飛行機のための数学となれば頑張れる!と物理も頑張り、良い成績で3年目まで順調に進んでいきました。流体力学も楽しくて計算もバンバンやっていて、このままアメリカにいられたらいいな~と思いつつ、就職活動を始める時まで将来のことをあまり考えていませんでした。
 そしてやってきた就職活動。アメリカの大学にいると卒業後そのままアメリカで就職するか、日本へ帰って就職するかの選択肢があります。けれど私には「日本に帰る」という選択肢しかありませんでした。
 実はアメリカで航空宇宙分野で就職したい人は、軍事にも関係する分野のためほとんどの会社で市民権が必要でした。日本人がアメリカの航空宇宙学分野で仕事をするためには、現地で結婚して配偶者ビザからグリーンカードを取得して市民権を取得、最短でも5年はかかる、最初にして最大の足切りがありました。
 そして日本へ帰国することを考えて、○○重工などの日本企業の海外採用枠を検討しました。企業研究を進めていくと、海外採用枠で入社した人たちは旅客機を造っている人がおらず、自分で旅客機を設計することはほぼ叶わない可能性が高い、たとえ運良く入社できたとしてももし軍事の部署になったらどうするのか?そして、日本企業においては配属や異動もあるので、ずっと旅客機を造り続けることも難しい。
 大学3年のとき、好きなことをやるためにアメリカに来て、あともう少しで手が届きそうなところで、その夢が絶たれてしまう現実に悩み続けました。

生物学の研究室のインターンに参加

 この頃に出会ったのが、(当時)テキサス大学サウスウェスタン医学センターの柳沢正史氏(現 筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構 機構長・教授)でした。そのころは生物学の知識は皆無でしたから、どこかの分野ですごい人というくらいの温度感。就活の現状を少し話していたのですが、柳沢氏から「夏休みにそのままいて勉強するしかないなら、実践経験を積んでみなさい」とダラスにあった柳沢研究室のサマーインターンに誘われました。
 当時の私は本当に飛行機以外のことはほぼ眼中になくて、研究室がどんなことをやっているかもよくわからないまま「時間もあるし、インターン生はお金がもらえるから行ってみよう」と好奇心で研究室へ足を踏み入れたんです。でも、実際にその大学は、生物学で有名な大学でノーベル賞受賞者を何名も輩出していて、研究室前の廊下や教室とかでそういった教授たちと学生のディスカッションが毎日のように行われている刺激的な環境でした。

睡眠とテクノロジーの掛け算

 生物学の研究室って、データを取って解析したり最新の機械を使ったりする風景を想像するような、テクノロジーの最先端を行っている印象があると思うんです。でも実はその逆。インターンに行った当時も、実験データの記録は手書きで書いてたり、パソコンも古いOSが現役で動いていたりして、最初の仕事は研究を教えてもらいつつPCのセットアップ係からでした。
 でも、実験をするとなると研究者達はみんなアイデアがあって、あーだこーだ言うものの、自動化できないからやらない、というようなことを見聞きして「もったいない!」と思ったので、自動化する実験道具を作り始めました。
 この時、睡眠という業界に触れて、「今の自分では生物一本でやってきた人たちには到底太刀打ちできないが、睡眠はまだまだわからないことが沢山あって、それらとテクノロジーとの掛け算をすれば何とかなるのではないか?」と思い始めました。

航空工学から生物工学へ

 インターンで研究室へ参加するうちに睡眠が面白くなってきて、好きな飛行機について改めて考え直します。飛行機は今でも好きで好きでしょうがないんですけど、将来は乗る機会が増えるように仕事を頑張るとか、乗ることを趣味の範疇にしようと思い始めました。私以上の飛行機愛でパイロットになった友人たち、彼らも飛行機が好きだけど現実も見てきていて、その狭間で頑張っている友人たちを見ているとやはり大変そうで。自分がそういう状況で飛行機に対峙するよりは純粋に楽しむほうがいいと思ったんです。
 大学4年になる頃、大学に生物工学という分野ができました。この学部は特殊な学部で、あと2年の在籍が追加になるけれど、卒業すると大学院に行ったことになり卒業すると修士になる。そしてエンジニアリング部分については航空工学ですでに履修済みの内容だったので、あとは生物の勉強だけすれば卒業できて修士も取れる!そして研究も続けてそのままPh.D.が取れればアメリカに居続けながら研究して、飛行機に乗って日本と行ったり来たりできるなあ…なんて思い始めて、航空工学から生物工学の大学へ転学をしました。

エンジニアリングx○○で睡眠の研究を開始

 生物工学での勉強・研究を始めたんですが、この時点では何の研究内容で学位を取るかはっきりしていませんでした。エンジニアリングxなにか、で取れたらいいなあと薄っすら思っていたものの、生物学ではそんなにパパっとアイデアが出るわけじゃないし、どうやって卒業しようかなあと思っていた矢先、マウス(ハツカネズミ)の脳波計測のプロジェクトにアサインされて。
 当時は、よし睡眠だ、と、手動でマウスの脳波をスコアリングしていました。スコアしているときに、この波形の時はノンレム睡眠、この波形の時はレム睡眠、と波形を見ながら一つずつスコアしているよなぁと作業を続けていて、「もしやこれは自動化できるのでは?」と思い至りました。そして自動化のプログラミングを空き時間にやってみたのが研究テーマを決める直前。この自動化プログラムがのちの研究に繋がって行くことになりました。
 ネズミの脳波のスコアリング自動化、100匹くらいかな~と思っていたら、なんと対象は1万匹で。1万匹の計測に備えて、微弱な電気信号からデータ変換する計測用のプログラム、その変換したデータからレム・ノンレムを判定する解析プログラム、解析する結果を保存するデータベースの3本柱のプロトタイプをそれぞれ半年ほどかけて一から作り込んでいきました。

研究者はジェネラリスト

 みなさんが思う研究者は○○のエキスパートみたいなものをイメージされると思いますが、実は、研究に付随するあれやこれやを自分でやらないといけないため、みなさんが思っている以上に研究以外に色々なことをしています。今回の研究では、ソフトウェア以外にもハードウェア、電極が必要で、自分でデザインをしたり、図面を引いて外注したりで。1万匹のデータを計測するには1人では10年20年とかかってしまいます。1年で終わらせるためには技術員の方の力を借りる必要があって、学生なのにその方々の採用面接なんかもやりました。手術の方法を簡略化させたりとか、麻酔の方法を変えたりとかドキュメント作成とかありとあらゆることを。
 今までネズミの睡眠を評価することは、10匹でも1ヶ月以上かかっていました。その過程の中で、簡素化や共通化、圧縮できるところは圧縮して。手術も術者が変わるとデータも変わるということもあったので、手術の手法も標準化してプロトコルを書いて。1週間で100匹できる体制を整えるところまでを卒論のテーマとしていました。

アメリカのラボから日本のラボへ

 このままずっとアメリカで研究を続けていくと思っていたんですけど、筑波大学でラボを開設する話が出て、今やっている研究をスピードアップするために日本でも行うことになりました。ラボの立ち上げをはじめ、毎月日本とアメリカを往復する日々で時差ボケしていない日がないくらいでした。
 そして、今でも鮮明にその時を覚えている「その日」。アメリカと日本で行っている研究を日本のラボへ統合する話が出ました。そして「佐藤はPh.D.を取得して日本に一緒に帰ってきて研究を続ける」ということになり、とても迷いました。自分の得意は工学的知識、睡眠以外は専門ではないので、ラボが閉鎖された後に残る道は睡眠以外の研究室に行くことも検討しなけれなならず、しかも研究の後ろ盾となる知り合いや先生もいない状態で。
 当時は結婚して子どもが産まれており、家族の生活の基盤を移すことも考えなければなりませんでした。「日本へ帰る」ということは「日本のラボで引き続き睡眠の研究を続けていくこと」ですが、そこで再び悩みました。

アカデミアからビジネスへ

 「今の研究が終わったら自分はどうするのか?どうしたいのか?」悩み続けながらひとつ決めたことがありました。「自分でやりたいことをやる中で、論文を書くだけではなくて社会に還元していきたい」と。今の研究はマウスで行って良いところまでいっていたので、それを人間でやってみたいという研究者としての欲と、テクノロジーx生物、睡眠で自分のキャリアなら何かできるのではないか?と思い始めたんです。でも、アメリカの起業は非常に難しくて、教授レベルならVCから資金調達をして…ということも考えられますが、ポスドクがいきなり起業してスタートアップは難しい。それならば将来的には日本で睡眠のビジネスをやろうと決断したんです。
 日本に帰るという決断をした時点で、アカデミアの研究者としてのパスではなく、自分の得意を活かしていきたいと思いました。サポートしてくれる人たちの存在や、日本のSleepTech企業もいくつか存在していて、それならば自分に何かできるのではないか?という思いを抱え帰国しました。

小林との出会い

 その後帰国して引き続き研究を続けて、「論文を書いた後は、これからどうしようか、大学を辞めて自分の道を探そうか」と思っていた時、当時は自分でビジネスをやろうと思っていてタイミングを見計らっていた時に出会ったのが小林でした。
 最初は自分でビジネスをやろうと思っていて、ことあるごとに一緒にやろうと誘われていたのをずっと断っていたんです。自分でビジネスをやると決めて、会社を立ち上げるところまで行ったんですが、最後の最後でどんでん返しがあって……やっぱり起業するのが大変だなあと思ったんです。
 そして、周りを見渡したときにいたのが小林で。「一緒にやればいいんだ」と気づいたんです。

(了)

合宿の日の風景。焼きそばでなぜか盛り上がる小林と佐藤。


・・・・・・

この後の佐藤の道のりについては・・・

研究応援 VOL.15 P18~「サービス提供から始まる睡眠研究で、個人と社会の眠りを変える」


2人目のメンバーとなった佐藤、現在は20名を超え、プロダクトの開発も行いつつ研究の基盤も整えています。
睡眠の謎がどのように解き明かされていくのか…一緒に探しにいきましょう!

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